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陶器作家 河井寛次郎

河井寛次郎

1890年〜1966年 故物作家。
島根県安芸市大工の家に生まれる。近隣農家の陶芸制作現場を見て陶芸に興味を持つ。現島根県立松江北高校卒業後、1910年現在の東京工業大学窯業科に入学。河井寛次郎には師と仰ぐ者の存在はなく、師弟関係を重んじる陶工界にとって、大学の教育だけを受けて陶工の世界に入ったのは河井氏が初で、氏は窯業の科学的研究も行った新しい世代の陶工を確立した人物である。東京工業大学卒業後は、京都市陶磁器試験場に入所し東京工業大学の後輩である濱田庄司と共に1万種類の釉薬の研究や中国磁器などの過去の時期の模倣や研究をした。
1955年文化勲章を辞退。人間国宝、芸術院会員などへの推挙もあったが同様に辞退。1957年には川勝堅一の計らいで「白地草花絵扁壺」が、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞するもこれも辞退し、結局最後まで無名の独自創作活動にこだわった。有名な陶芸家でありながら無位無冠の陶工と言われ1966年に76歳で没した。

陶器買取のポイント

河井寛次郎の作風について
1920年には五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で、京都五条坂にあった窯を譲り受け「鍾渓窯」と命名し活動の本拠地としました。しかし、翌年東京都大阪で開催された「創作陶磁展覧会」にて、無名の陶工が手がけたシンプルかつ実用性にあふれる作品に感銘を受け、それと同時に外見の華やかさばかりを意識した自身の作品に疑問を感じ、一時期創作活動を休止しました。この作陶を休止したことにより、現存する作品の礎を築いたのではないでしょうか。

1924年にイギリス留学から帰国した陶芸家・濱田庄司にスリップウェア(主にヨーロッパでつくられた実用重視の陶器)を見せられたのをきっかけに自身の作風を一新。デザイン性よりも実用性を重視した日用品を多く手掛けるようになりました。

そして、1926年濱田庄司らとともに新しい日用品を制作し普及しようとした「民芸運動」に深くかかわるようになり、各地を訪れ日本や朝鮮、イギリスの器からうけた影響をもとにした作品で再び注目を浴びたが、この時期以降寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになったと言われています。

河井寛次郎の買取について
一見、日用品に間違えるような無骨な作品ですが、じっくりと鑑賞すると品の高さを感じます。美術品として大事に扱うことは河井寛次郎の意図に制作意図に逸れてしまうかもしれませんが大事に扱いたくなるような不思議な魅力があります。

茶碗や鉢なども制作していますが市場に出回っている量は圧倒的に壷(花入)が多い印象です。

独創的なデザインやダイナミックな色合いの作品が人気あります。

※共箱が無い場合は?
河井寛次郎の作品には【共箱(本人直筆でサインとタイトルが書かれた木箱)】が無い作品も市場に出回っていました。
現在は安全に作品を流通させるために【共箱】がない場合は【識箱(有識者が書いた木箱)】を取得するようにしています。


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河井寛次郎の作品

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