安野光雅の買取価格とポイント
1926年 〜 物故作家。
島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。子供の頃から画家を目指していた。宇部工業高等学校に入学し、1944年に繰り上げ卒業して住友鉱山に就職。その後1945年4月に応召。敗戦後、小学校教員を経て山口師範学校の研究科を終了し、1949年に上京する。その後10年は学校教師の傍らに本の装幀やイラストを手掛け、35歳の時に教師を辞めて本格的に絵描きとなる。1968年に初めての絵本として「ふしぎなえ」を発表。エッシャーに大きく影響を受けた文字の無い不思議な世界観は世界中で評判を得て、各国の言語に翻訳された。その後も子供向けの絵本から、劇団の宣伝美術、文学作品のイラストや装画など手広く活躍し、2001年には故郷・津和野に安野光雅美術館を設立。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、菊池寛賞などの受賞、2012年には文化功労者に選出されている。肝硬変により2020年12月に逝去。
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島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。子供の頃から画家を目指していた。宇部工業高等学校に入学し、1944年に繰り上げ卒業して住友鉱山に就職。その後1945年4月に応召。敗戦後、小学校教員を経て山口師範学校の研究科を終了し、1949年に上京する。その後10年は学校教師の傍らに本の装幀やイラストを手掛け、35歳の時に教師を辞めて本格的に絵描きとなる。1968年に初めての絵本として「ふしぎなえ」を発表。エッシャーに大きく影響を受けた文字の無い不思議な世界観は世界中で評判を得て、各国の言語に翻訳された。その後も子供向けの絵本から、劇団の宣伝美術、文学作品のイラストや装画など手広く活躍し、2001年には故郷・津和野に安野光雅美術館を設立。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、菊池寛賞などの受賞、2012年には文化功労者に選出されている。肝硬変により2020年12月に逝去。
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買取ポイント
安野光雅の作風
安野光雅は原色を使うことはほとんどなく、見ている人を安心させるような柔らかい色合いと優しいタッチで有名です。子供向け絵本の挿絵も多いですが、自身が好きだった旅先の水彩画も多く残しており、エッセイとしてまとめた本も出版されています。どこか懐かしい、いつか見たことのあるような田園風景や、古城や町並み、豊かな自然風景を優しく描いた水彩画は非常に人気があります。絵本の挿絵には教師だった安野ならではの工夫が多くされており、単なるイラストとしてだけではなく、よくよく見ていると新しい何かを発見できるような、そんな絵になっています。産経新聞に連載された有名な「洛中洛外」にも、日曜の朝から読者を癒してあげたいという安野の思いが詰まっていたようです。その人柄も相まって、安野作品は今も多くの人に非常に愛されています。
安野光雅の現在の評価と価値
社長が入力予定
安野光雅の代表作品
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■鳥と親子(版画)
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■山のなかま(版画)
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■山にむかう(版画)